シンガーソングライター&プロデューサーによるblog


by ontan

ゼロ年代の批評の地平

ゼロ年代の批評の地平 —リベラリズムとポピュリズム/ネオリベラリズムと題されたセミナーに行ってきた。生で東浩紀を見たかったのと、自分としても最近興味を持っているテーマだったからという理由だ。


ただ行っただけではもったいないので、僕が印象に残ったやりたりをメモ書き程度にまとめてみた。



北田氏「ネット上のナショナリズムはコミュニケーションのネタに過ぎない」
東氏「ネタということがアメリカでは、なかなか理解してもらえなかった。ネタで済まない人達もいる」
山本氏「ネットの世界=右ということではない、主体的に発信している人の情報が大きく見えているだけ」
齋藤氏「かつての他者はコミュニケーションの通じにくい相手であったが、現在は過度に内面まで通じたコミュニケーションが可能となった、それによって"コミュニケーションによる成長や変化が起こらない"という事態に到っている。」「"変化しない意識"の共有から否応無しに"保守"を選択させられている」
山本氏「コミュニケーションの形態が、電話からメールやネットへと変化したため、"本音のつぶやき"が目にふれるところに現れるようになった」「"変化しないだろ"という気分が保守の形で現れる」
東氏「自分も北田さんも、現状では"変わらない"ものを、とにかく精緻に分析してみようという立場、最近の宮台真司については、いくら政治的発言をしても本気で"変わる"と信じているのか疑問」


東氏から山本氏へ「今の保守とは変化へのあきらめなのか?」
山本氏「反射的な回答をしているだけの人間が多いだけ、例えばネット上での嫌韓はただNOと言いたい人達の発言、あくまで保守"的"なものにすぎない。」「バイト・派遣社員は奴隷のような立場にいる。失うもののない奴らが騒いでいる。」
北田氏「ネットはどうでもいい話題によって実存的不安を解消する装置と化している。嫌韓は韓流支持の主婦層やマスコミへのアンチの表明。」
齋藤氏「若い人は過激な主張であれば、保守でもリベラルでもなんでもいい。流動性が見られる。」
東氏「"現実は変わらない、保守もリベラルも意味をなさない、以上終わり"ということでいいのか?」
齋藤「人々を先導する役目の人がポピュリストとなり、先導される人々は動物化してゆく」「言説の立場は、コンスタティブとパフォーマティブの2つがあるが、小泉首相はその中間的な人物。明らかにコミュニケーション能力に欠けていているが、それが人々をひきつけている。」
山本「小泉はキチガイ。だがそういうルールの社会なのだからポピュリズムしかない。広告業界などの手法が政治に当てはめられている。民主党はポピュリズム対ポピュリズムのカウンターとしての役割を果たせなかった。」



東氏から北田氏に「保守とリベラルという対抗軸の見えないこの情況にどう介入したい?」
北田氏「自分にとってのリベラルは断念した結果辿り着いた選択肢に過ぎない。一種のフィクションとして認めている。コミュニケーションの手法と言える。"リアルが大切"という人からは排除されがちだが。」
東氏「リベラリズムは"コミュニケーションの手法"ではなく、政治運動のはず。"コミュニケーションの手法"ということはよく理解できるのだが、そんなことでいいのかとも思う。」「自分も"動物化するポストモダン"で動物化ということは示したが、それについて、いいとも悪いとも言わなかった。」「何らかのポジティブなビジョンを出したいのだが、分析的な立場からはオルタナティブなものは出しにくい。」「ポストモダンで育った者には設計することはやりにくい。脱構築することが正義とされて来た。」
山本氏「東さんは分析したいのか?対策を出したいのか?」「 結局東さんは本当のところ何をしたいのか?」
東氏「そのうち答えたい。」(この辺りからやや閉塞感のある雰囲気となる。)


東氏「僕が受けてきた教育と社会の実情がぶつかる」「多くの動物化した人々を支配する一部の人々というふうになると、人間中心主義ではやってられない。」「小泉に見られるポピュリズムは動物化への動き」「"僕が"とかの問題ではなく、20世紀の人文科学の知自体の問題。」


北田「ネット上でナショナリズムに走る人は"人間になりたい"という現れでは。」
東氏「理想は回復できるものなのか? 理想もネタに過ぎないのか? ポピュリズムには、もう一つのポピュリズムで対抗するしかないのか?」
山本氏「普通の人は理想をまとめられない。アカデミズムの方から提出するべきだ。今はナショナリズムくらいにしか拠り所がない。保守は同質感も持つものなので、合一しやすい。」
北田氏「大澤さんも宮台さんも理想を提出しているのかもしれないが、現実にフィットしているとは思えない。自分としては答えを出せない。」
東氏「作ることは大事だと思う。今の保守は過去を呼び戻しているだけ。保守も新しいものを作る必要がある。例えば、今後移民は受け入れざるを得ないだろうが、日本は昔から移民国家だということを保守の側から言ってもいいはずだ。」


齋藤氏「今日の議論は閉塞感を感じた。言説に閉じている。例えば"ヤンキー"という層には届いていない。」
東氏「出版の衰退のせいもある。希望としては北田さんとともに雑誌を作りたいと思っている。だが、それには"何のために"というものがないとダメだと思っている。」


最後の質議応答。東氏が客席にいた宮台真司氏にふる。

宮台氏「若年世代の批評家達の閉塞感を感じた。自明性が消えそれを、"神"とか"理性"とか"伝統"とか、とにかくいろいろなもので埋めようとしている時代に、日本で埋めることのできるものが何かと、今日は期待したのだが、特に出てこなかった。」
東氏「宮台さんは『"大きな物語"はやはり必要だ。君達はどういうカードを持ってるの? 今日は出て来なかったね』ということを言いたいのでしょう」(と前置きした上)
「"カードなんかなくてもいい"と言えればよいのだが、最近は"大きな物語"への回帰が当たり前となりつつある。自分は"再近代化"しなくていいと思っている。オルタナティブを示すためには人権とか一人一票の選挙制度とかいろいろなことを壊す事になるかもしれない。今はそのためのカードを揃えている段階だ。」



最後の東氏の言葉には心を打たれた。閉塞感を認めた上で安易に「大きな物語」への回帰に走らず、「わからない」「答えられない」という言葉をたくさん使いながらカードを探すことを諦めていない東氏に同世代として僕は大いに共感した。

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by ontan | 2005-12-26 00:32 | 知的生活