言葉遊びに興ずる人達
2006年 10月 30日
>岐阜県瑞浪市の市立中学2年の少女(14)が今月23日、いじめをほのめかす遺書を残して自殺した問題で、いじめの有無を巡る学校側の説明が二転三転している。同校は少女の家族に対していじめを認めていたが、その後、会見などで「原因は分からない」「広い意味でのいじめはあった」と言い直しを繰り返し、30日には再び「自殺に結びつくいじめの事実はない」と話した。
でも、自殺をした人がいるという事実は客観的事実として存在するわけだ。最近、このような報道は、「いじめの有無」という点に論点がもっていかれてしまうけれど、もう少しシンプルに考えていいのではないか?
「なぜ自殺したのか?その原因は何か」という形で考えていけばいい。そこに「いじめ」という名をつけるかどうかにとらわれ過ぎるべきでない。
「からかい」ではダメか? 「いさかい」ではダメか? 「トラブル」ではダメか? 「いじめ」という名を冠されなければ、OKですか? 言葉を生業としているマスコミの方々の発想は、言葉の粋を出ないのか?
子供達の死をきっかけに言葉遊びに興ずる人達に僕は違和感を感じる。